2020年9月25日
大手ビール会社であるサッポロビール株式会社は、ビール・発泡酒・新ジャンル・ワイン・焼酎などの製造販売、洋酒の販売を行っています。またサッポログループとしてアルコール飲料はもちろん、食品、お茶やその他の飲料、味噌などの製造や販売など、幅広く手掛けています。原料へこだわるサッポロビールですが、そのこだわりは、大麦とホップについて、異なる品種や系統を交配して、新しい品種を生み出す「育種」を行っていることからも見て取れます。大麦では「はるな二条」、「きたのほし」、「CDC PlatinumStar」などが、ホップでは「信州早生」、「ソラチエース」、「フラノマジカル」などが生まれています。近年、その個性的な香りから「ソラチエース」の人気が高まっています。同社 生産技術本部 価値創造フロンティア研究所 實方 綾子(さねかた・あやこ)氏と高澄 耕次(たかずみ・こうじ)氏に、ホップの香味成分の分析についてお話をうかがいました。
写真1 ホップはアサ科のつる性多年草。雌雄異株で、ビールに使われるのは雌花
一般にビールは麦芽を糖化させ、煮沸、発酵、熟成という過程を経て製造されます。ホップは主に煮沸の過程で投入され、ビールに香りや苦みを加える役割があります。ソラチエースは、サッポロビールが1984年に品種登録したホップです。ヒノキ、松、レモングラスを思わせる香りのこのホップは、日本で一般的に好まれていたピルスナータイプのすっきりしたビールには合いませんでした。そのため、誕生当初はビールとして製品化されることはありませんでした。ソラチエースが最初に流行したのはアメリカ。サッポロビールでは原料調達拠点をグローバルに分散させていますが、1994年、同社で当時育種研究に携わっていた研究員の一人が、交流の一環としてアメリカのオレゴン州立大学にソラチエースを持っていったのが、アメリカでの流行を生むきっかけとなりました。とはいえ、渡米後すぐに流行したわけではありません。ソラチエースは、ワシントン州立大学のホップ畑などで、細々と栽培されていましたが、転機が訪れたのは2002年。アメリカのあるホップ農場のマネージャーがソラチエースの香りに目をつけ、大規模な栽培を開始。クラフトビールブームが起こっていたアメリカでソラチエースが知られるようになり、一躍、人気のホップとなったのです。
図1 ビールの製造工程
自社開発のホップを使ったビールが商品化されていない?!
アメリカのクラフトビールで人気を博していたソラチエースですが、日本でこのホップを使ったビールを飲める機会は限られていました。2015年頃から、サッポロビール社内では「日本生まれ、自社開発のソラチエースを使った商品を販売したい」という声があがり、商品化のプロジェクトが立ち上がりました。あわせて、「ただ『ソラチエースはいい香りがする』というだけではお客様に説明できない。科学的な裏付けがほしい」という意見も出てきました。この科学的な裏付けの役割を担ったのが、同社の価値創造フロンティア研究所でした。価値創造フロンティア研究所は、サッポロビールやポッカサッポロフード&ビバレッジなど、グループ各社からの依頼を受けて分析、ビール品質管理のための分析、異物・異味異臭品の解析などを行うとともに、自ら香味の研究などに取り組んでいます。
写真2 サッポロビール株式会社 価値創造フロンティア研究所
カギを握るのはゲラン酸
価値創造フロンティア研究所では、におい嗅ぎGC/MS(ガスクロマトグラフ質量分析計)とSPME-GC/MS(固相マイクロ抽出 ガスクロマトグラフ質量分析計) を活用して、分析を行った結果、ソラチエースの特徴的な香りに寄与する成分の1つが、ゲラン酸であることを突き止めました。ソラチエースは他のホップに比べ、ゲラン酸の含量が高いことに加え、ビールの醸造工程中でもゲラン酸は発酵などによる影響を受けにくく、ビール中に残存し続けていたのです。また、ゲラン酸自体の香りは強くないものの、ホップ香気成分と共存するとその香りを強めるということも発見しました。この成果は2016年に米国で開催されたWorld Brewing Congress(世界醸造学会)※1で発表されました。そして8月19日には、ソラチエースを100% 使用したビールが販売されるに至りました。ゲラン酸の効果で、「ビールの印象が変わる」と話す方もいれば、「香りが立つ」と感じる方もいました。
※1 2016年8月13日~17日米国デンバーにて開催。
図2 ゲラン酸がホップの香りを強めることが実験で判明
写真3 2016年に発売したソラチエースを100%使用した商品(左)。2020年にリニューアルした商品(右)では、希少な北海道上富良野産「ソラチエース」ホップの使用比率を高めたと言います
その後も研究を続け、2017年日本農芸化学会大会ではソラチエースのホップ添加時期に関する報告を行いました。ホップの添加時期の異なるビールを製造したところ、ゲラン酸自体の含有量は変化しないものの、他のホップ成分が変化することが分かりました。この結果、ソラチエースのレモンのような香りを出すには、発酵中にホップを添加する方法が適しているということも明らかになっています※2。
さらに同年、スロベニアで行われた第36回European Brewery Convention(ヨーロッパ醸造学会大会)では、「ソラチエースの特長香成分ゲラン酸とホップ由来の香気成分の相互作用について」も研究発表を行いました※3。ソラチエースとモザイクというホップをブレンドすることで、トロピカル、レモンの香りが強くなることも分かっており、この研究成果を生かした商品も2019年に発売されています。「ソラチエース単独でももちろん特徴的な香りを持つビールだが、他のホップと組み合わせることで、もっとおもしろいビールができるかもしれない。ソラチエースと他のフレーバーホップと相性についても、官能評価と香気分析を行い、商品化に役立てようとしました」と、實方氏は話しています。
写真4 伝説のホップSORACHI1984 Session:ソラチエースとモザイクホップ使用
※2 2017年度日本農芸化学会トピックス賞を受賞 ※3 2017年5月14日~18日スロベニアで開催、Best Poster賞受賞
ソラチエースの香気成分の分析に使われた分析機器は
「2015年からソラチエースの研究に着手していますが、最初の段階では、ソラチエースの特徴香を突き止めるため、匂いかぎGCを利用していました。ソラチエースを使ったビールと、その他のホップを使ったビールのクロマトグラムを取り、成分の違いを調べました。」と實方氏は話しています。ゲラン酸は香気成分ではあるものの、酸であるため、測定が簡単ではありません。そこで、「Agilent 7000B トリプル四重極GC/MS」を活用することで、選択性を高め、定量下限を下げていると言います。
また、「ビールの香気成分の分析では、ゲラン酸以外にもたくさんの成分を測定する必要があります。かつては、1つ1つリテンションタイム(保持時間)を調べて、マニュアルでタイムセグメントを調整したり、成分数が多いとメソッドを2つにわけたりして測定する必要がありました。今はアジレントが提供しているツール、Intelligent MRMを活用することで、質量分析(MS) 条件も自動で設定でき、1つのメソッドで多数の香気成分を測れるようになりました。」(實方氏)。ホップの香気成分は、一般的なGCではピークが重なってしまうことが多いため、ハートカット法による1次元2次元切替GC/MSを活用することで選択性を高めているそうです。
人気のフレーバーホップに含まれるチオール類に迫る
価値創造フロンティア研究所では、ビールの香気成分として、ワインで有名なチオール類と呼ばれる化合物についても関心を寄せています。「数年前に、日本でもクラフトビールブームが起こり、特徴的な香りのビールを商品化しようという動きがありました。特徴的な香りを出す手段の1つがホップを変えること。そのため、ホップの香りの研究ニーズが高まりました。ワインではよく研究されていたチオールが、ホップの香りにも寄与していることが分かり始めており興味を持ちました。」と高澄氏は話しています。
写真5 サッポロビール株式会社 価値創造フロンティア研究所 高澄 耕次氏
この研究にあたっては、チオールの分析手法を開発するところから始める必要があったと言います。まずは、チオールの選択的抽出法として、従来は水銀を使った方法が一般的でしたが、水銀の有害性に配慮し、銀イオンを用いた新たな手法を開発しました。検出法についても新たな手法を取り入れています。既存のSCD(化学発光硫黄検出器)を使う方法では、サンプルをかなり濃縮する必要があり、作業効率が下がるという問題がありました。ハートカット2次元GCを使う手法では、一斉分析には向かず、効率が悪いという問題がありました。そこで、元々は農薬分析用として導入していた「Agilent 7000B トリプル四重極GC/MS」を活用することで、作業効率を維持しながら、選択性を高め、定量下限を改善したと言います。「トリプル四重極GC/MSは、分子量が小さい香気分析では効果が得られないと考えていました。実際に使ってみると、選択性が上がり、最終的には定量下限も改善されることから、香気分析でも十分に使えることが分かりました。今では、所有しているトリプル四重極GC/MSのうち1台は、香気分析専用で利用しています。」と高澄氏は語っています。独自に開発したチオールの分析方法を活用して、さまざまなホップを分析した結果、人気のあるフレーバーホップにはチオールの含有量が多いことを突き止めました。また、チオールが香りにどの程度関与しているのかなども分かってきました。最終的には、チオールの高い製品や栽培方法などについても研究結果としてまとめ、育種に応用しようとしています。
写真6 チオール類の分析で活用した「Agilent 7000B トリプル四重極GC/MS」
長年のユーザーだからこそ分かる、使いやすさの進化
価値創造フロンティア研究所では、長年にわたりアジレントのGCやGC/MSを利用しています。「GCでは、6890も現役で動いていますし、最新の8890も導入しています。GC/MSは、最も古いものは5973、最新の5977B、トリプル四重極GC/MSの7000シリーズなど、すべての装置がコンスタントに動いている状況です」(實方氏)と言います。ビールや焼酎などの香気成分、レモン、お茶、コーヒーなどの香気成分、オフフレーバー(異臭)など、臭いに関するものであれば、GCを活用して測定しています。GERSTEL社製の匂いかぎシステムを組み合わせたGC-O/MS(におい嗅ぎガスクロマトグラフ質量分析計)やハートカット法が簡便にできる1次元2次元切替GC/MSも導入しており、最新の研究ではもちろん、定型的な分析でも分離を改善するために活用されているのとことです。
写真7 サッポロビール株式会社 価値創造フロンティア研究所のラボ
長年アジレントのGCやGC/MSを使ってきた高澄氏は、新しい製品が出てくると、カタログ性能で謳われていないような細かな部分が改善されているのを感じると言います。「性能が上がっているのはもちろんですが、キャピラリー・フロー・テクノロジーの細かい圧力計算ができるようになったり、カラムやライナーの交換に工具が不要になったりなど、カタログには表れないよう部分で便利になっています」と、例を挙げています。
また、アジレントのソフトウェア「MassHunter」について、實方氏は「感覚的に使え、自由度が高いと感じます。どんどん便利な機能が追加されていくので、たまに古いソフトウェアを使うと、改めて便利さを実感します」と言います。「ターゲットとクオリファイアを簡単に入れ替えられるなど、初期のバージョンと比べると、細かいところが使いやすくなってきています」と、高澄氏は具体例を挙げています。
「問題が生じたときにコールセンターに電話すると、すぐにつながります。多くの場合は電話で聞いたアドバイスどおりに対応すれば直っています。また、しばらくすると、フォローアップの電話もかかってくるので安心です。」(實方氏)と、GCを使用するうえでのサポート体制についても満足しているとのことです。
写真8 サッポロビール株式会社 価値創造フロンティア研究所 實方 綾子氏
価値創造フロンティア研究所では、2019年に、アジレントの最新モデル「8890 GC」を導入しています。このGCについて、高澄氏はこう語っています。
「最新のものは何かしら良くなっているというイメージもあり、最新モデルを導入しました。診断機能があり、昔は自分でやっていた注入口のリークチェックなどを装置がやってくれるのは便利です。装置にトラブルが起こっておらず、今のところは診断機能が役立ったことはありませんが…。GC/MSのフロントGCとして使用する場合の使い勝手があがると、より良いと思います。」
育種を進めたホップに、科学的な裏付けを
サッポロビールでは、伝説のホップ「ソラチエース」や、ゲラン酸、チオールなどの化合物の研究成果も生かしつつ、新たなホップの育種を続けています。實方氏は、育種を行う部門と連携し、現在もソラチエースのゲラン酸やその他の香気成分の分析を続けていると言います。實方氏は「さらに香りのよいホップが生まれてくれば、その香りの分析は研究テーマとしていきたいと思います」と、将来展望を語っています。
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