2020年9月18日
生体内の低分子代謝物の種類や濃度を包括的に分析・解析する「メタボロミクス」。遺伝子やタンパク質に比べて生体や細胞の表現型に直結する代謝物を扱うこの学問領域は、がんをはじめとする病気の診断や創薬研究などの分野で期待が高まっています。
今回は、メタボロミクスを専門として技術開発や応用研究に取り組む九州大学 生体防御医学研究所附属 トランスオミクス医学研究センター 馬場健史(ばんば・たけし)教授に話を聞きました。
九州大学 生体防御医学研究所附属 トランスオミクス医学研究センター 馬場健史教授
「メタボロミクス」とは代謝物を網羅的に分析・解析する学問のこと
私たち生物の体は無数の細胞が集まって作られています。一つ一つの細胞は、DNAの情報をRNAに転写し、タンパク質への翻訳を経て最終的な代謝産物を作り出し生命活動を行っています。つまり代謝物とは、DNAから出力された情報を示す物質であると同時に、病気の症状のような身体や細胞の表現型にも深く関わる物質といえます。
ゲノム情報から代謝産物を生成するプロセス
生体内の物質を網羅的(包括的)に分析する手法・学問をオミクスと呼びますが、何を解析対象とするかによってその呼び名が変わります。DNAを解析する場合はゲノミクス、RNAはトランスクリプトミクス、タンパク質はプロテオミクスと呼ばれます。代謝物の場合は、「メタボロミクス」と呼び、またメタボロ―ム(Metabolome)は代謝物の総体のことになるので、「メタボローム解析」と同義語になります。
「メタボロミクス」の有用性と目指すゴール
代謝物はその特性上、病気の表現型に最も直接的に関与しているという点で、ゲノムやRNA、タンパク質とは違った有用性を秘めていると馬場教授は話しています。
「たとえば、がんを早期発見するために、生体内のどんな物質を検出すべきなのか考えてみましょう。現在ゲノミクスの技術発展により、あるがんの発生に特定の遺伝子が関与することが明らかになってきました。しかし、もしその遺伝子から異常なRNAやタンパク質が作られても、健常者であればそれを取り除くシステムが働くため、実際にがんになることはありません。また、がんが形成されたとしても、初期の段階ではがん細胞に由来するタンパク質などが少量であるために検出することができず、早期診断が難しいのが現状です。代謝物の場合であれば、早期であっても体内の代謝は変化をしていますので、どのような代謝物が体内にどれだけあるか調べることで、がんの診断マーカーとして利用することができます。」
実際には、代謝物だけを単独で調査しても、体内で起こった異常のメカニズムを完全には解明できません。病気のメカニズムをより深く理解するためには、先に挙げたゲノミクス、エピゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクス、そしてメタボロミクスを統合させ総合的に解析するトランスオミクスが重要です。
馬場教授は特に医学分野を中心に、他分野の研究者や医師、企業とともにメタボロミクスとほかのオミクスとの統合解析を目指した応用研究を進めています。
トランスオミクス実現のために技術開発と優れた分析研究者の育成が必要
トランスオミクスの実現のためには、メタボロミクスの中で解決すべき課題があると馬場教授は言います。
「メタボロミクスの現状の課題の一つとして、複数の施設で同一サンプル、同一代謝物を測定しても、施設ごとに分析結果がばらついてしまうという点があります。」
このような課題を解決するため、現在馬場研究室では、異なる施設で異なるメーカーの分析機器を使って同じデータを出す手法も開発しています。
「メタボロミクスの抱える課題の2つ目は、メタボロミクスで信頼のおけるデータを出すために、熟練した分析技術者の養成が必要なことです。最近は、信頼できるデータを安定して出せる分析技術者の数が減っていると実感しています。我々の研究室でも技術者の育成には特に力を入れています。」
50以上の企業や大学等の研究所と共同研究を行う
馬場研究室では、データの信頼性確保、高速分析の自動化、代謝物のライブラリー構築のため、50以上の企業や大学等の研究所と一緒に研究を行っています。アジレントのGC/MS(ガスクロマトグラフ質量分析計)を使って、CCLD(Calibration Curve Locking Database)という代謝物の定量的なデータベースを構築する研究を進めています。
「今後一般企業にメタボロミクスを普及させるにあたり、測定した代謝物を参照するためのデータベースが必要となります。このようなデータベースの存在は、他のオミクスで取ったデータを突き合わせ、トランスオミクスを用いて病気のメカニズムを解明していく際にもとても重要です。」
Calibration Curve Locking Database (CCLD) の構築
さらに、アジレントの製品は、馬場教授の別の研究でも使われています。現在は、脂肪酸やステロイドといったターゲットとなるメタボロームが決まっているような分析に「Agilent 7000シリーズ トリプル四重極GC/MS」を、ノンターゲットで全体の成分を見るような分析に「Agilent 5977B シングル四重極GC/MS」を利用しているといいます。
馬場教授は、これらの装置のメリットとして、信頼性・安定性はもちろん、JetClean セルフクリーニングイオン源の機能も挙げています。馬場教授の研究室で測定されるサンプルは、たくさんの成分が測定対象である反面、不純物も多く、イオン化の際にイオン源が汚れやすいことが課題でした。しかし「JetCleanを搭載するアジレントのGC/MSでは、使用頻度から想定していたほど汚れておらず驚きました。我々の分野にとっては非常にメリットがある機能ですね」と馬場教授は評価しています。
優れた分析機器を使いこなせる分析研究者の養成も重要
トランスオミクスを実現させ信頼できる分析結果を安定して出すために、研究者はスペックの高い分析装置をきちんと使いこなすための分析技術が必要となると馬場教授は話しています。
「私たちの研究室では、装置の修理やメソッド開発を最終的に学生たち自身で行えるようになることを目指しています。また、分析原理やメソッドの意味などを、装置に触れながら時間をかけて学んでもらいます。そのような試行錯誤が人を育て、企業や研究施設で分析業務に携わったとき、自分で問題を解決することができる希少な人材に育っていくと考えています。私の研究室からそのような熟練した分析者が巣立ち、他の人にもその技術を伝えられるようになってほしいと考えています。」
そして、分析の技術やノウハウを身につけていくために重要なことのひとつに、分析機器のサービスエンジニアとのやり取りを挙げます。
「アジレントのエンジニアの方が研究室で機器の点検を行う際は、いつも学生に見学させています。学生には、エンジニアと仲良くなって色々なことを教えてもらうよう伝えています。」と馬場教授は話しています。
「たとえばF1マシンでも、ドライバーの違いでスピードは変わりますよね。いくら車のスペックが良くても、その機能を使いこなして走ることができなければ意味がありません。運転技術のトレーニングを受けているかどうかということはとても重要です。それは、分析機器も同様。装置のスペックだけでなく、それをきちんと使える人を育てていくということも、この業界を維持していくためには重要だと考えています」
メタボロミクスの有用性や可能性をより広く知ってもらいたい
馬場教授に今後の活動の展望についてもうかがいました。
「メタボロミクスはまだ認知度が低い学問分野で、多くの可能性を秘めているにも関わらずその有用性については、まだまだ社会一般に理解されていないと感じています。みなさんにメタボロミクスの技術をもっと活用してもらうため、応用研究で結果を出すだけでなく、メタボロミクスの結果をみんなが利用できるような環境整備にも取り組んでいきます。」
最後に、馬場教授がアジレントに期待していることは何かをうかがいました。
アジレントはメタボロミクスにとても理解のあるメーカーと感じていますし、我々としてもありがたい存在です。これからさらなるオミクスの発展のために、これからもぜひ一緒に研究を進めていければと思っています。」
メタボロミクスの普及によって様々な研究分野で革新的な成果が生まれ、技術力の高い研究者が業界をリードできるような未来を創るため、馬場教授の挑戦はこれからも続きます。
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